久々の更新です。
この夏もホラーの波がすごかったですね!映画・イベント・番組・・・。
長らく更新していませんでしたが、いまさらながらTXQ FICTION3 魔法少女山田についての感想を書いていきたいと思います。
「近畿地方のある場所について」などのモキュメンタリーホラーが盛り上がっている中、ドキュメンタリーのあり方について冷や水をかけられたような思いのする、考えさせられる作品でした。
全体の内容は割愛しますが、作品の核心に触れる部分があるので、ご注意ください。
作品の構造
モキュメンタリーというジャンルがあります。これはドキュメンタリーの体で作られたフィクション作品、フェイクドキュメンタリーとも言います。
古くはフジテレビ系列で放映された「放送禁止」シリーズが代表的ですが、最近になってこのジャンルのホラー作品が数多く発表されています。
放送禁止は非常に好きな作品で、学生時代レンタルDVDで全作品繰り返し見るほどハマっていました。
違法アップロードだとは思いますが、Youtubeで検索すると出てきます。今見返すと雑な部分もありますが、その粗さが逆にリアリティを感じさせる名作ですね。
今活躍しているクリエイターの方々も、少なからず放送禁止シリーズの影響を受けているのではないでしょうか。
さて、「魔法少女山田」では、当然ながらモキュメンタリーとして我々視聴者は楽しむわけですが、終盤にその様相は一変します。
モキュメンタリーの多くはドキュメンタリーとしての映像の中で怪異が現れたり、異常な様子が映されるものですが、今回はドキュメンタリーの製作者の編集によって意図的に異様なものが作り出され、それを消費する我々という俯瞰の構図が浮き彫りになるのです。
作中に登場するドキュメンタリーDVD「魔法少女おじさん」。山田さんは自分自身のため、子どもたちのために必死に生きています。子どもにウケるために魔法少女の格好をするなど努力の方向は独特ですが、そこに悪意はなく、純粋に子どもたちを応援したいという気持ちで行動しています。
それをドキュメンタリーとして追いかけるディレクターは山田さんというコンテンツをいかに面白く、視聴者に届けるかを考え、時に山田さんを追い詰めるような発言をします。
さらに山田さんの死後、追悼イベントと称しロフトプラスワン(こういうイベント実際にやりがちなところなのがリアルですよね)で彼の作った曲を流します。その場に流れるのは追悼の念だけでなく、死後ですら少し面白げに「魔法少女の山田さん」をエンタメとして消費する無自覚の悪意でした。
「魔法少女山田」の第3回で視聴者の我々の違和感ははっきりと姿を表します。「聞くと死ぬ歌」の正体は「山田さんが自死する際に歌っていた自作の歌」であり、その歌をどこかで聞いたことがあると言い謎を追い求めていた青年は、「山田さんが目の前で自死したことでトラウマを抱え、その記憶を封印していた」のだと判明しますが、我々が見ていた全3回の番組をディレクションしたのは「魔法少女おじさん」の製作者その人であり、この作品すらエンタメとして(ともすれば悪意ある)編集されたものであると分かります。
その時、我々の中にある無自覚の悪意が浮き彫りになるのです。
無自覚の悪意の正体
あくまでこの作品はフィクションであり、そもそもエンタメとして視聴者を楽しませるものとして作られたものです。しかし、この番組の製作者が「魔法少女おじさん」を作った人物であるとわかった瞬間、視聴する我々も「コンテンツとして魔法少女山田を楽しむ人々」として作品の登場人物となるのです。
魔法少女の格好で子どもと接する山田さんを異常者のように扱い、調子はずれの自作の歌を高らかに歌い上げる姿に滑稽さを感じます。しかしそれはあくまで「ドキュメンタリー」という文脈で切り貼りされた映像を見て感じることであり、製作者がこう見せたい、という意思のもと作られたものにまんまと乗せられたに過ぎないのです。
目に見えるものが全てではないと皆んな理解しています。しかし、ドキュメンタリーと言われると途端にその映像に収められたものが全て真実であるかのように思ってはしまわないでしょうか。
もしかしたらそれが、当人の想いとかけ離れたものかもしれないのに。
まとめ
今回の作品は「恐怖心展」とのタイアップで宣伝も兼ねた番組でした。
確か現実に魔法少女の格好だったかお面を被ったかのおじさんによる女児への声掛け事案も起こっていたと記憶しています。そのような被害に遭った人にとっては確かに魔法少女への恐怖心を抱えることになるでしょう。
私にとってこの作品は、コンテンツの消費者として誰かの意図で歪められたものを事実として受け止めてはいないか、というメディアへの恐怖心を感じさせる作品でした。
それでは、また。
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